■故・清宮さんの自然農法30年の記録と記憶

■故・清宮さんの自然農法30年の記録と記憶

自然農法とこころ」の話
教えてくれたのは、清宮さん。

 自然農法の作物を育ててくれるのは、まさに自然。人間の力が及ぶのはほんの少しです。
できることの一番は草取りでしょうか。あとは、真心をこめてお世話をする。これが一番大切な
ことだったりします。自然農法に は「こころ」が大事。
それを教えてくれた、故・清宮泰重(せいみや・やすしげ)さんのことをお話したいと思います。

●作物をまたぐときに「ごめんよー。ごめんよー」

清宮さんは畑で「ごめんよー。ごめんよー。」とつぶやくのが癖でした。何に謝っているのかというと、それは、農作物をひょいと、またぐときの口癖なのでした。 人をまたぐのは大変失礼なことですが、清宮さんにとっては畑の農作物も敬うべき大切なもの。それをまたぐのですから、自然と言葉が出ていたのでしょう。

●「柿の木よ。今までありがとう。」と、お礼を言ったら・・・

あるとき、清宮さんが柿の木を10本植えました。木は大きくなりやがて実をつけるようになりましたが、1本の木だけは実がならない。それは植えた位置が悪く、一輪車で通るときにいつも邪魔になり、「この木邪魔だなぁ。切ってしまいたい。」と内心思っていた木だったそうです。「実がならないんだし、やはり切ってしまおう。」と思いましたが、切る前にお礼を言おうと、木の根元に酒を振るまい、「今まで育ってくれてありがとう。」と声をかけたそう。そうして、しばらく木を切るのを忘れていたところ、なんとその年、春は若葉が茂り、それを不思議に思った清宮さんは木を切るのを止めて秋まで待ったところ、初めて立派な柿の実がついたのです。そのときに、その清宮さんは気がつきました。
「邪魔だ、邪魔だと思っていたら、実なんてなるわけないんだ。柿の木にも人の気持ちが伝わるんだ。可愛そうに、この木は今までつらかったことだろう・・・。」 

それ以来、清宮さんの柿はどれも大きく甘くなったそうです。





清宮さんほど、穏やかな心で畑に立っていた人はいない。
清宮さんほど、野菜を愛おしんだ人はいない。

清宮泰繁さんは、残念ながら平成7年にお亡くなりになっていて、この世にはいらっしゃいません。
清宮さんは、今から約30年前、当「自然と健康を守る会 太陽食品」の代表、鶴田が、自然農法
自然食品の普及に立ち上がった頃に知り合った方です。
同じ横浜の都築区で、鶴田と清宮さんは意気投合し、一緒に自然農法の普及に情熱を注いできました。

当時を回顧しながら、鶴田は、たくさんのことを清宮さんから学んだといいます。
今でも、ことあるごとに「清宮さんは・・・」と、感慨深げに清宮さんの思い出話になります。
誰よりも、畑や作物のことを一番に考えていらっしゃった方だったそう。
「作物はね、人の足音を聞いて育つんだよ。日に何度も畑に行って、様子を
みてあげれば、美味しい野菜になるんだよ。」というのが、清宮さんの口癖でした。

また、清宮さんの作る野菜は本当に美味しくて、
「清宮さんの野菜をください。」「清宮さんの野菜はないですか?」と、
当時の宅配会員の間で、ひっぱりだこだったといいます。

清宮さんのお野菜が美味しかったのは、清宮さんの心が野菜たちに伝わっていたから。
自然農法に大切なのは、作物のことを思う「こころ」である、と教えてくれたのが
清宮さんだったのです。

「あの人は、哲人だった。」 清宮さんを知る人々はみな口を揃えて言います。


清宮さんとは、一体どのような方だったのか、皆さんにもご紹介したいと思います。


故・清宮泰繁さん
●清宮さんの奥様と、ご子息の昇さんに
清宮さんの思い出話を伺ってきました!

清宮さんの奥様ミチ子さんとご子息の昇さん
「清宮さんって、どんな方だったのか、ぜひお話を聞きたい!」と、奥様とご子息の昇さんを訪ねてきました。忙しい農作業の合間をぬって、2時間以上もお相手をしてくださいました。
 奥様は、「あの人のことを話して、何かの役にたつんだか・?」とご謙遜気味でしたが、とても懐かしそうに、清宮さんにまつわるエピソードを語ってくださいました。

◆日記15冊、写真200枚が綴る「自然農法30年分」の思い」。

「清宮さんの写真1枚でもみせてくださいませんか?」と尋ねてみたら、「そういえば、親父のアルバムとノートがあるよ。」と昇さんが出してくださったのが、15冊のノートと分厚いアルバムたち。「いちにち」と名づけられたノートは、清宮さんの日々の日記であり、また自然農法の記録誌でもありました。アルバムは昭和49年から作られていました。畑の様子、作物の様子が年月を追うごとに変わっていった様子が写真に残されているのです。

これを見て本当に驚きました。清宮さんがどんなにすごい方だったかということが一目瞭然。誰に見せるでもなく、自分のために、自分がよりよい作物を作るために、日々の記録を綴られていたのです。

昭和40年代、デジカメなんてなかった時代に、
写真を撮り、現像し、それを整理して残すというのはとても労力のいることだったことでしょう。

この、日記とアルバムの存在は、弊社の誰もが知りませんでした。大切にお借りして、社内で皆に見せたところ、皆も驚きの声をあげていました。「これは清宮さんだからできたことだ。 これは、「自然農法」にとって、かけがえのない宝物だ。」と、目に涙をにじませる者も。

実は清宮さんは、子供の頃から「弱視」という、目に大きな障害をかかえていらっしゃった方なのです。字を書く際には、紙ギリギリに顔を近づけて書いていらっしゃったそうです。そんなハンデを抱えながら、毎日日記をつづっていらっしゃったとは・・・、信じられない思いがしました。



「自然農法」の記録」である、清宮さんの日記。
昭和45年から平成6年まで、ほとんど毎日記録されていたもの。


清宮さんのアルバム。一番最初の1枚は、
昭和49年に撮ったもの。


毎日の日記の内容は「お天気」のこと、農作業のこと。
「9月10日 どんより暑い。一日中白菜の間引き。終わる。」というような、簡単に一行だけの日もありました。しかし、その行間に込められた、清宮さんのいろいろな思いが心に響きます。
また、清宮さんのお母さんがご病気で危篤という尋常ならぬ際も、お母様のご様子と共に、畑に関するの記録が必ずあります。

■故・清宮さんの自然農法30年の記録と記憶

〜清宮さんのアルバムの記録から〜

ここで、清宮さんのアルバムにどのような写真があるのか、それに添えられた言葉と
ともに、ごく一部をご紹介します。自然農法を始めた当初のご苦労、だんだんと思いが
かなっていく様子、そして、大規模な都市開発に巻き込まれ、自然農法が振り出しに
戻ってしまったこと、その後のまた大変な努力の姿が分かっていただけると思います。

まさか、自分のアルバムがこのような形でインターネットに掲載されるとは
清宮さんは天国で苦笑いをしていらっしゃるかもしれませんね(^^;



●「くすり(農薬)は、本来は畑には不要なもの。
自然の野菜のほうが美味しいのだ。」


清宮さんが自然農法での野菜作りを始めたのは、昭和46年のことでした。

清宮さんのお父さんの時代は、戦後の農薬や化学肥料の普及と共に
農協に薦められるまま化学農薬・化学肥料を使用していました。
面白いように収穫量が上がり、虫も病気もつかず、見た目の良い作物ができることに
満足していましたが、農薬を使い出して4、5年たった頃、また病害虫の被害が拡大し、
まったく野菜が育たないという状況が訪れました。

農薬を使い続けていると病気や害虫が耐性を持ち、より改良された強い農薬が
必要になったのです。そのときに清宮さんは、「農薬」というものに疑問を感じました。

話しは変わりますが、清宮さんは、原因不明の難病のため、10代の頃から
どんどん視力が落ちるという病をもち、その治療のためにずっと長い間
病院に通い、様々な薬を試すということを繰り返してきました。
しかし、「くすり」は一時は効くものの、まもなく効かなくなり、
結局、視力は落ちる一方。

野菜に「くすり」が効かなくなった、そして、自分自身にも「くすり」は効かなかった。
逆に「くすり」を使わないほうが症状が安定していることを実感し、

清宮さんは、化学物質である「くすり」というものに大きな疑問を感じ始めました。
「くすり(化学物質)」というものは、人間や農作物には不要なものではないか?」と
思ったのです。

そこで、清宮さんは、話を聞いたことがあった「MOA自然農法」などについて
勉強を始め、野菜の自然農法栽培に取り組む決意をしたのです。

まず最初、昭和46年に、ほうれん草を50株だけ、自然農法で作ってみました。
すると、農薬を使ったほうれん草よりも、自然農法のほうれん草に、青虫が
たくさんくるのです。

「きっと、自然のほうれん草のほうが美味しいのに違いない。
虫はそれが分かるんだ。」


その青虫たちの姿を見て、「自然農法は間違っていない。」と確信をもち、
その後、少しづつ、「自然農法栽培」の野菜を増やしていったのです。
青果市場では一文にもならない、見た目も悪い小さな野菜たちでしたが、それを
喜んで引き取ってくれるところがあり(太陽食品です)、
それを喜んでくれるお客さんがいる。
それが清宮さんの大きな励みになりました。

そして、畑全部に、自然農法のほうれん草を植えたのが昭和49年。
そのときに撮った写真が下記の写真です。 



●虫や病気に悩まされながらも、
冷静に畑を観察。

しかし、自然農法栽培は前途多難。特に虫の害には悩まされました。キャベツにやってくる青虫は1匹1匹捕まえる、そんな気長な駆除方法をとっていました。そうしながら、清宮さんは、種をまく時期、定植の時期、苗の成長のスピードと虫が葉っぱを食べるスピード、気温、天候の様子・・いろいろなことを観察しながら、化学農薬に頼らない自然農法での作物の栽培方法を模索していったようです。

回りの人が「こんなに虫にやられては、野菜が全滅だよ。農薬を撒けばいいのに。」と話すと、清宮さんはこう言ったそうです。
「いやいや、見ていてごらん。虫たちはとても利口なのだよ。 虫たちは決して全部は食べないんだ。 全部食べつくしてしまうと、来年自分たちの食べるものが無くなってしまうから、種が残るように、絶対に少し残しておくものなのだよ。自然というものはよくできているものだ。」と、のんきに構えていたそうです。

●青虫大量発生時の、驚きのエピソード!

あるとき、青虫が大量発生した際には、一切の駆除をあきらめました。しかし、青虫が育って飛んでいけば回りの農家に申し訳ないと、キャベツ畑全体に網を被せました。網の下で青虫はキャベツを食べたい放題。そして蝶になってからは外に飛んでいけずに、すべて網の下で命尽きてしまいました。そして、その後1ヶ月遅れでとても小さいキャベツができて、それをなんとかお客さんに分けたということもありました。
「あの蝶たちの数はすごかったのよ。」と奥様は苦笑い。












●自家栽培の植物堆肥で土を育てて。

自然農法初期の野菜は見た目も悪く、また大きさも貧弱。どうしても虫の害や病気に負けてしまい、作物が大きくなりきれません。 やはり、よい土を作って地力を上げる必要がありました。しかし、なんでも堆肥でも入れればいいということではありません。 清宮さんはできるだけ、自然に沿った形で、土の負担の少ない堆肥を使うために、畑の一角に緑肥(ソルゴー緑肥)を育て、土作りに使い始めました。
苗の間に敷き詰めれば雑草の生育も抑えられ、また土の上で自然に枯れて、土の表面でゆっくりと堆肥化していくというわけです。

清宮さんは、畑にあう堆肥について、日々土と相談しながら考えていたようです。動物性の肥料は一切使いませんでした。あるとき、弊社の鶴田が「うちの『おから』なら、植物性の有機大豆が原料です。これなら肥料にいいでしょう? これを堆肥に使ってください。」と清宮さんの畑に持ち込んだ「おから」さえも、何らかのためらいがあって使わなかったそうです。



●種も自分で

土つくりの為の試行錯誤はもちろん、清宮さんは、種や苗もできるだけ、自家栽培をしたいと考えていました。

最近でこそ、種の重要性が認識されるようになって来ましたが、当時はまだ種は買うもの。しかし、どこでどうやって栽培されたか分からない種よりも、自分の畑で育った野菜の種こそ、一番この土にあっていると清宮さんは考えていました。右の写真は、北海道産のじゃがいもの種と自家栽培の種を比較したもの。

これを実際に育ててみて、違いを観察するというようなことを研究していたのです。

清宮さんのアルバムには、他にもいろいろな種や苗を比較した写真が残されています。





●願い通りの野菜ができて。

自然農法を始めてから10年ほどたつと、ようやく、清宮さんの願っていた野菜が作れるようになりました。

「虫や病気による害は、ある時点からぷっつりと消えてしまったの。不思議なもんでねぇ。」と奥様は語りました。
農薬を使っていた畑の土がどんどんと地力を回復し、また崩れてしまっていた生態系のバランスがとれてきたということでした。
日々、土や作物と対話をしてきた清宮さんは、自分のやり方は間違っていなかったと本当にほっとしていたことでしょう。





だんだんと、世の中も無農薬、自然農法の野菜を求める声が大きくなってきていました。
清宮さんも、安定して、良質の野菜を作ることができるようになり、その出荷量も増えてきました。

右の写真は、自然農法で作った小松菜。虫食いも少なく、大きさも、慣行栽培のものとほとんど変わらない、満足のいく小松菜です。

「自然農法の農産物」と印刷されたダンボールで出荷した際の記念の写真です。
清宮さんには感慨深い写真だったことでしょう。




●農地改革でまた振り出しに。
畑の土は、「死」の土に

自然農法が軌道に乗り始めてほっとしているのもつかの間、清宮さんが精魂込めて作り上げた畑がすべて台無しになってしまうという事件が起きました。それは、市の都市開発計画。 横浜市の都築区周辺で、農業地区と住宅地を分断するという大規模な農地整備工事(農専工事)が行われたのです。

大切な畑の土は大型機械で削り取られ、これまで地中深くに眠っていた、「死の土」が新たに畑の土にとってかわりました。

アルバムには、何枚もその工事の写真を撮ったものが残っています。 





●農専工事後1年目、作物は
まったく育ちませんでした。

新たに作られた畑で、また清宮さんは一から自然農法を始めました。 他の慣行栽培の畑では、新しい土に化学肥料と化学農薬を使い、従来と同じ収穫量をあげているのに、清宮さんの畑では作物は全く育ちません。

市の土壌分析結果では、これまでの畑と新しい畑での成分は同じだということでした。 しかし、土には数字では計り知れない大きな違いがあるのははっきりと分かりました。

「鶴田君、もううちの畑はダメだよ・・」と清宮さんは、弊社の鶴田につぶやき、大変に落胆していたといいます。





●5年かけて、また「草」で土作り。

しかし、あきらめるわけにはいきません。弊社の鶴田は、なんとか清宮さんの力になりたいと必死に考えました。そして、あるとき、都市の緑化事業等で草刈をし大量の雑草を積んだトラックを目にし、この草を分けてもらおうと市や業者にかけあいました。また土に草を入れて、地力を回復しようと思ってのことでした。
それから、何年もかけて、何十台、何百台のトラックで、畑に雑草を搬入したのです。高さ1メートルになる草の山が枯れて嵩が減ると、また新たな草の山。何十回とそれを繰り返したのです。

この草はすべて無料でした。市や業者も、雑草の廃棄場所に困っていたため、喜んで草を運んでくれたのです。




●やっとできた! 良くできた! 「思い出のキャベツ。」

農専工事から、7年後、やっとまた清宮さんの畑には、立派な野菜たちが
育つようになりました。
下の写真は、清宮さんの思い出のキャベツ。
写真には「秋キャベツ 良くできた!」という言葉が添えられています。
大きさも申し分なく、病害も少ない。味はもちろん最高に美味しい。
「清宮さんのキャベツは美味しい! 」宅配会員さんの誰もが絶賛したキャベツです。

ここまでくるのには、本当に長い時間と大きな苦労がありました。
この写真をアルバムに載せるとき、清宮さんはどんなにかうれしかったことでしょう






●清宮さんご夫婦のこと。

その後、平成7年にお亡くなりになるまで、清宮さんは変わらず
心を込めてお野菜を作っていらっしゃいました。
その長年の苦労と共にしてきたのが奥様のミチ子さん。
ミチ子さんの畑仕事の様子を写真に取ったものもたくさんアルバムに飾られています。
ミチ子さんは、いつも写真の中ではニコニコとしています。

しかし、清宮さんの日記の中には、こんな文章もありました。
「本日、1日畑にいる。夜、ミチ子は椅子に座ったまま、ボーとしている。
突然、わんわんと泣き出した。疲れているのだろう。」

自然農法という険しい道を、2人で力を合わせて歩んできた清宮さんご夫婦には
他では計り知れないような、つらい大変な時期もおありになったことでしょう。

大きな心でゆっくりと「自然農法」を育てていらっしゃった清宮さんご夫婦、
二人のお姿は、「自然農法」を引き継いでいく者に大きな勇気を与え、
また深い愛を教えてくれます。

ここに、改めて、心からの敬意を表したいと思います。

清宮さん、本当にありがとうございました。











お父さんの意思を受け継ぎ、
今、畑を守っているのは清宮昇さん。


清宮泰繁さんが亡くなられてから、農業を引き継いでいるのは息子さんの昇さん。
80歳近くになられるお母様のミチ子さんも、まだまだ畑の草取りに精を出されています。

昇さんは、小さい頃から畑仕事の手伝いをしながら、ご両親のご苦労を見るにつけ、
その大変さを身にしみて感じていました。毎朝5時には家族そろって朝食をとると、
ご両親は朝6時前には畑に出かけてしまう、その後のなんともいえない寂しい気持ち・・
そんな思いから、どこか「農業」を敵視するような気持ちがあり、
昇さんは、農業を継ぐ気はなかったといいます。
お父さんの泰繁さんも、決して無理強いはしませんでした。

昇さんは学校を卒業後、地元の農協に勤め、農業機械を修理する仕事を
していらっしゃいました。
しかし、お父さんが亡くなられ父が精魂込めて作ってきた畑がそのまま放置されて
いるのを見ると、やはり、このままではいけない。と農協を辞め、農業を引き継ぐことを
決意しました。
そして、昇さんなりに工夫をしながら、今、自然農法での農業を続けていらっしゃいます。

「まだまだ、父のレベルには達していませんが、父の思いを受け継ぎつつ、
私なりの自然農法を追求しています。農業がとても楽しくなりました」
と昇さんは語ってくれました。

お母さんのミチ子さんはもちろん、お父さんの清宮泰繁さんも、天国から
安心して昇さんを見守っていらっしゃることでしょう。


「農業は楽しい。」と語る。清宮昇さん          お母さんのミチ子さんも、まだまだがんばっていらっしゃいます。

●昇さんなりの記録をつけています。

なんと、昇さんもお父さんと同じように、畑や作物の様子を撮った写真を< アルバムに保存しています。その数ももう5、6冊に及びます。
「父の真似ということではないんですよ。」と昇さんは苦笑い。
「ただ、野菜が育つ様子を見るのは本当に楽しいのです。だから、それを写真に撮って整理しているだけ。写真を撮っておけば、過去の様子を振り返るのに、やはり役立つこともたくさんありますからね。」と語ってくださいました。
●地元の小学校で、農業の先生に。

また、清宮さんは地元の小学校に、たまに学校に出向いて農業の先生もされているとか(^-^) (もちろん、自然農法で野菜を育てることをおしえていらっしゃいます。)

子供たちが小学校で育てている野菜の様子を記録したカードを、時々清宮さんに送ってきてくれるのですが、その数も何十枚にも及んでいました。「小松菜が大きくなりました!」と、生き生きとした表情で野菜を育てている写真と共に、清宮さんへのお礼のメッセージがたくさん書き込まれています。
「農薬うんぬんよりも、自分でたった1粒でもいいから種を撒いて、育ててみることがとても大事。自分で作った野菜ほど美味しいものはないでしょう。」と、清宮さんも嬉しそうにそのカートを見せてくださいました。

お父さんの思いを引き継いで、未来の子供たちへの伝承を担っている、 そんな頼もしい昇さんの姿を垣間見る瞬間でした。