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ひでじビールってどんな会社?

公開日:2025/04/24 更新日:2025/04/24
ひでじビールの創立は1996 規制緩和により地ビール解禁となり、全国各地に「地ビール」が生まれていた頃、ひでじビールは誕生しました。 ひでじビールを立ち上げたのは、当時すでに高齢であった創業者の故「西田 英次」(にしだ・ひでじ)氏。 水郷延岡の奥、行縢山の麓を切り開いての醸造所とブルワリーレストランの立上げ。 「ひでじ~さん」とも呼ばれていた「ひでじ」氏の名前より名付けられたのが、「ひでじビール」の始まりです。 ひでじ氏亡き後、当時の親会社の「一事業部」として、当時の代表者のもとビール醸造、レストラン運営、ボトルビールの販売を行ってきた「ひでじビール」ですが「地ビールブーム」は、数年で去り、当時300近くあった全国の醸造所も、撤退が相次ぐ冬の時代。 「地ビール」が日本に生まれて僅か数年。歴史も浅く情報も少ない。熟練した醸造士も数少ない状況。さらに、欧州とは違う日本の環境でのビール造りは、多くのブルワリーで困難を伴うものでした。 全国で多くのブルワリーが生まれたものの、品質の維持、安定した味づくりが難しい現実。 また、様々なビールスタイルが今ほど受け入れられていないこともあり、当時300近くあった全国の醸造所も、撤退が相次ぎました。その中には、上質なビールを生み出しつつも、経営判断から撤退となったブルワリーもありました。
私たちも日々、悩み続けながら、必死に醸造を行っていました。 県内外での営業、街頭でのイベント販売・・・ しかし、観光地でもなく、また、元来酒造メーカーでない私たちには大きな荒波にもまれ事業撤退の可能性すら現実味を帯びて来ていました。 そして、私たちは品質の安定の為、今までの工程を大きく見直す決断をしました。赤字の事業部に、今一度資金を投入したのは当時の社長 故「西田英敏」氏。私たちは指導者藤木氏を招き、当時のビール造りを一から見直す決断に踏み切ります。 私たちは工場を解体。配管の細部まで磨き上げ、醸造の源となる「酵母」が元気よく働ける環境づくりからの見直しでした。 同時に酵母ラボを設置し、酵母の自家培養技術を習得。現在の味づくりの基本となる環境を作ることができました。
品質の安定、そして独自の味づくりに取り組み、各種の商品がコンテスト等でも受賞。 希望が見えた矢先・・・ ある日、突然の「事業部廃止」の通告。半年後に、ビール事業部を廃止する・・・ 創生期から、15年。運営会社からの事業部廃止通告 ビールの品質向上に尽力した前社長もすでに他界。 当時の運営会社の経営判断もあったのでしょう。 私たちは、クラフトビールの世界から突然、去らなければならない状況となりました。 CA390100 なんとかできないか? 自分たちのビールを、残したい! 当時ビール事業部統括であった現代表、永野は、 「自分たちだけでビール事業をやる!」という決断をしました。 それは「Employee Buy-Out」EBOと呼ばれる、従業員による会社の買収。 しかし買収には多くの資金が必要ですが、買い取るのは従業員。資金はありません。 金融機関に融資をお願いするも、門前払いの日々。 当時の運営会社が撤退を決めた事業。融資のお願いは困難を極めましたが、 最後には、地元銀行の融資が決定。 現代表永野が、以前より会社を離れ取り組んできた地域貢献・地元応援の活動。 それを見て頂いていた方々が、今度は応援してくれたのです。
再出発に向け、新法人でのビール醸造免許の取得の為、2010年7月、会社設立。 そして、当時の運営会社から土地設備・ビール製造・販売部門を取得。大変ではありましたが、ブランドの存続に最後には暖かい応援を頂き、再出発致しました。 新法人名は「宮崎ひでじビール株式会社」 その昔、醸造所の建つ土地を切り開いたひでじ翁の名前を残し、新しい門出となりました。 2010年7月 宮崎ひでじビール株式会社設立 2010年11月 株式会社ニシダよりビール製造・販売部門をEBO(Employee Buy-Out)により取得 会社案内には、2行で記載されているこの「2010年」 しかしこのとき、宮崎は大変な状況に陥っていました。
畜産県、宮崎を襲った口蹄疫。 終息宣言まで約半年の間、被害を受けた農場は1277件、やむなく殺処分された家畜は28万8649頭、県東部5町ですべての牛と豚がいなくなりました。 甚大な被害を受けた畜産業だけでなく、観光産業他県内の経済への大打撃。 お土産品としての需要も激減、県内消費も激減・・ そして年明けの2011年 県西部の新燃岳が噴火。 広範囲かつ長期の降灰は県の農産物に甚大な被害をもたらし、またもや、一次産業のみならず、長期の観光産業への大打撃・・ 更に同年、鶏インフルエンザの発生。 独立直後の試練・・・ もうだめかもしれない。 そんな私たちを救ってくれたのは、県外の既存取引先様や、新しくひでじビールを販売していただけるようになった飲食店様や物販店舗、そして多くのお客様でした。 振り返れば地ビール創生期から、第一次地ビールブームの終焉。 多くの醸造所が生まれ、多くの醸造所が閉鎖されました。 しかし、このころからでしょうか。 地道に歩んできた多くのブルワリーによる、魅力的な商品、品質の高い商品が広がり、また世界的にも「クラフトビール」のうねりは大きなものとなり、今、創生期に夢見ていた「豊かなビール文化」が少しずつ根付こうとしているのを感じます。
地元有志の皆様に応援を頂きながらの独立、そして試練。 地域の一次産業への深刻なダメージを目の当たりにしながらの事業継続の中で、 私たちは、「地域」との関わりをより深く意識していくようになりました。 少し前より進めていた、地場産品を使った商品造りを、さらに深く掘り下げ、より、意義のあるプロジェクトとして推進できないか? 地域を意識し、地域に根差した意味のある商品を生み出し、発展させていくことで、地域に貢献する商品造りができないか? 地域に喜ばれる存在でありたい! その想いから、生まれたのが「宮崎農援プロジェクト」でした。 それは、「宮崎の農畜海産物を積極利用した商品を企画、開発、ブランド化することによって、県内一次産業の活性化を目指すプロジェクト」として生まれた、社内プロジェクト。 そして、このプロジェクトから生まれた、県特産物を利用した様々な商品は、多くの皆様から反響を頂き、多くのコンテストにて高い評価を頂き、私たちを支えるまた一つの柱となりました。 それはつまり、ビール造りにとどまらず、生産者そして地域の力が評価された事。 この地だからこそ出来た。私たちはそう考えています。
私たちは今、10年来の夢、「オール宮崎」に取り組み続け、大麦農家さん、県内の機械メーカー、地元の業者様と一体になった取り組みを進めています。 宮崎県産大麦100%、自家製できたて麦芽のビール、そしてホップ生産への取り組み。 独自ルートでの海外輸出とブランディング・・・ 世界基準を。地域と共に。 農工の技術と職人の気質、感性が息づく日本。 伝統と技術の融合であるビール造りを、宮崎の風土、私たちならではの味づくりで・・・ 宮崎の畑から生まれるビールをぜひお楽しみくださいね!
更新日07/1007/0307/09集計